桐谷裕也。
短大1年生の時、私が秘かに恋に落ちた人の名前です。

その人は、私のいる短大で、生徒に簿記を教えていました。
「簿記を教える」といっても、それは本業ではなく
普段は自分が立ち上げた会社で、税理士の仕事をしていました。
背は高く、端正な顔立ちをしており、その風貌はどこか
色っぽい雰囲気を身にまとっていました。先生を初めて目にした時、凛とした彼の表情に、思わず胸がドキリとしたのを覚えています。

「わ、わ、あの先生超カッコ良くない?
あんな良い男がウチの短大来るとか!何かの間違いじゃない?」

「ホントだ、マジでカッコイイ・・・
あの先生が来るなら、私も簿記の授業受けようかなあ」

私が通っていた短大は女子大で、しかも先生はオジサンかオバサン
しかいなかったので、たちまち先生は、生徒の間で評判になりました。

(これだけ多くの女性に好かれるのだから、
私のことなど気にも留めないだろう)

そう考え、特に何も期待せず、先生の授業を受けていました。
‟短大一美人と言われた女の子が、先生のことを狙っている”
なんて噂も。下から数えたほうが早い容姿の私など、絶対相手に
しないだろう。そう思ったのです。

「この場合、純利益の出し方は・・・ブツブツ」

―そもそも私は簿記が大の苦手でした。
簿記に関する言葉を暗記するのは得意でしたが、それを応用して
正しい数字を出すということが、なぜか全くできませんでした。

「困ったねえ、君。最低でも70点は取らないと。
全経簿記3級の試験すら通らない生徒の話なんて、今まで
見たことも聞いたこともないよ」

他の先生にはそう愛想をつかされ、クラスメイトからは、
どうしてこんな簡単な問題が解けないのかと口々に揶揄されました。しかし、その先生だけは違いました。

「どこでつまずいてるんだろう?計算式はちゃんと頭に入ってるはずなのに・・・言葉の意味も、しっかり理解できてるはず」

そう言って、熱心に私に簿記の指導をしてくれました。
(こんなに一生懸命、私のことを考えてくれる人がいるんだなあ)
そんなことを想い、胸がじんわり熱くなりました。
と同時に、ムクムクと恋心のような感情が、
胸に湧き上がってくるのを感じました。

(付き合ってる人がいるのに、こんな感情を抱くなんて―)

そう思いましたが、私の気持ちはもう誰にも止められませんでした。
先生と二人きりになったある日のこと―
「好きです」先生の柔らかく細長い左手を握り締め、思い切って
先生に告白しました。すると、予想だにしない答えが返ってきました。「ありがとう、僕も貴女と同じ気持ちです」と。

そこから先生と私の、秘密の交際が始まりました。
悪いことをしているという感覚は、もちろんありました。
バレたらどうしよう、なんて不安も、何度も脳裏を過ったのですが、
結局私は先生との関係をキッパリ断つことができませんでした。
彼氏も先生も、同じくらいどっちも好きでした。
なんて、言い訳にもならない言葉ですが・・・。

その後は、先生のサポートのおかげで、無事に卒業することが
できました。あれだけ手こずっていた計算式も、スラスラと解けるようになり、卒業間際には一番難易度の高いといわれる
日商簿記1級の資格を取ることができました。
「あれだけ簿記嫌いだった水希が、1級の試験に通るなんて!」
クラスメイトは皆目を丸くして口々にそう言いました。
これぞ愛のパワー?何だか少し古臭い言い方ですけど。
先生とは、短大の卒業を機に別れてしまいましたが―
(今頃何してるのかなあ、先生)
時々先生のことを思い出しては、甘酸っぱい気持ちに
浸っている、そんな私です。

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